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地球はつながっている

[2012.03.14]

今回は、ある会報に寄稿した記事を紹介したいと思います。

「地球はつながっている」
松山浩吉
忘れもしない、2011年3月11日(金曜日)午後2時46分。
携帯電話で千葉の娘と家内が雑談していた時の事である。
突然、「あ!!揺れている、ああ~立ってられない!周りの建物も大きく揺れている、怖~い、怖~い」と娘の携帯から大きな驚きの声が上がった。
「何言ってるの、めまいと違うの?じっとしていたら治るよ」と家内が返事をするも、「違う、周りの人達も立ってられないから、地震やで、まだまだ強く揺れている、こんなの東京に来て初めてや、まだ立ってられない!!」と返事があるも、「本当、そのうちにおさまるから、心配しなくても良いよ」と安心させる様に携帯でおしゃべりをしていた。
私たち二人は、イオンで昼食後、ブラブラしていたので、面白おかしく、少し心配になっていましたが、あまり気には留めませんでした。
 娘との会話中2~3分くらい経ったでしょうか?
「あれ??こっちも揺れているのと違う?スーパーの壁にかかっているチラシや看板が揺れている。あっ!!やっぱり、揺れているよ、地震やなこれは!」と私が家内に言う。
それから娘に携帯で、「こっちも、揺れているよ、ひょっとしたら、すごい、強い、強い地震??」と言うと、「だから、言ってるじゃない、立ってられないくらいの地震だって!建物が大きく揺れて、つぶれそうで本当に怖い」と言い返してきた。
「今日は、怖いから午後は学校に行かなくて、このまま部屋に帰るわ!部屋の中がグチャクチャになっていそうで心配や!!」と言い、アパートに帰宅した。耐震マンションにもかかわらず、食器棚から大きな食器が飛び出して割れていました。
数分間の出来事でしたが、私と娘は関西と関東、「ひとつ日本列島の上でつながっている」と大地震での貴重な経験をしました。
地震波には次の3種類があります。
P波:波の進行方向と同じ向きに振動し、最も早く伝わる縦波
S波:波の進行方向と直角の向きに振動し、P波の次に速く伝わる横波
表面波:地球の表面を伝わり、S波と同じかそれより少し遅く伝わる波
P波は最も早く到達してカタカタという小刻みな揺れをもたらし、その次にS波が到達してユサユサという大きな揺れをもたらします。表面波はそれらの後から到達し、S波よりももっとゆっくりとした揺れをもたらします。これらの揺れにより、物が棚から落ちたり、建築物が壊れたりするのです。
地震波のスピードS波では、400m/secから3000m/sec(時速1440kmから10800km)。約450km(東京から大阪の距離)450,000m÷(400m~3,000m)=1,125秒~150秒(2.5分~18分)。計算上では地震波は東京から大阪を2.5分から18分ぐらいで伝わります。今回、地震発生前より、娘と携帯電話で通話していたからこそ、本当に地震の速さを体感することが出来ました。と同時に、私たちは皆、日本列島という弓のような列島に一緒に住んで居るのだと痛感しました。
それから、スーパーを後にして、テレビのチャンネルを回すと、東北地方の大惨事が映し出されていました。地震、津波、原発事故が重なり、その夜、皆様がご存知のように東京でも大変なことが起こりました。多くの帰宅困難者達が続々と駅周辺に集まり、延々と徒歩で帰宅する姿を見るにつけ、大惨事で大変心配になりました。
その後のことは、皆様方がご存知のように、ダメな政府によりさらに、悲惨さが増し二進も三進もいかず本当に困った一年になりました。
その悲惨さの中でも、多くの都市や地方から、さらには外国からも東北を助けようと、ボランティアが立ち上がり東北へと、救援に行く姿には大変勇気づけられました。特に、東北の地元では自分自身が被災にあったにもかかわらず、海岸部や小さな集落にボランティアとして、困っている人達を助けに行き、励ましていました。本当に他人事ではない事に気づき、更に多くの人達が東北の人達の為に動き出しました。
 特に、自分の家族達も悲惨な目に会いながらも、被害にあった人達の為に、自分の家族を差し置いてまでも、大きな使命に奮い立ち、困難に立ち向かう姿は、素晴らしく、私自身も身の引き締まる思いが致しました。
 宮城県に住んでいる、家内の友人のことが頭によぎりました。結婚式の時にお手伝いをして頂いた彼女はどうなったんだろうと、心配していましたが、連絡しようにも電話がつながらず心配していました。
数日してから突然、我が家に彼女からメール連絡がありました。
彼女の家は山手にあったので、それほど被害はないとの事でしたが、水道・ガスはダメでした。
石巻の彼女の友人の家では、地震津波で自宅の一階には死体が上がり、泥水、海水で悲惨な状態にも拘らず、家族4人二階でかろうじて生活しているとの事でした。
彼女は、石巻女川町の困っている人たちが住んでいる、小さな集落に行き助けているのだとの事です。
人の為に頑張っている彼らの姿を想像するだけでも、胸の詰まる思いが込み上げて来るばかりでした。
彼女を放ってはおけず、我が家も彼女からの要望を、出来るだけ聞き入れて大型スーパーで買い出して送りました。更にまた近くの教会に行き、カンパや物資(新古品)比較的奇麗な物を集め東北に送って頂きました。
この時、関西の人たちと、東北の震災にあった人たちも、「一つの心でつながっている」のだと感じました。
それから4月に入って、再び彼女からメールがありました。
「とうとう水が出た!!蛇口から水が出る!なんとありがたい!通常の生活が出来ます。温水器にもお湯が溜まり、お風呂にも入れます!水の無い3週間は長かったです。ウチはガスを使ってないので、ガス風呂の人たちに(ガス復旧は1ヶ月後)我が家のお風呂を解放しました。年頃の娘友人がズラリと風呂の順番待ちしています(笑)。今日はスーパーには劇的に品物が増えました。乳製品、缶詰、パン類、冷凍食品には出会えませんが、肉売り場に肉!魚売り場に魚!(ただし干物)を見ました!(すぐ売り切れ!)ガソリンは相変わらず不足しています。ただ、かなり頑張ると20リッターが手に入るようになりました。今までは徹夜で頑張っても手に入らなかったから。ですから、我が家はもう大丈夫です。今までありがとうございます。しかし、被災地の復旧はほとんど進みません。むしろ、孤立村、離島には自衛隊の援助しかなく、ライフラインのすべてがアウトの地区もあります。教会から東北のたくさんの教会を支援しないといけないのはわかっていますから、期間を区切るとか、ある一定のラインを引かなければと思っています。」と健気な気持ちに目が潤むばかりでした。
地震・津波・原発もひと段落がつき、東北の後輩からも夏頃、自分の生活に戻るからしばらく救援はひと休みするとの連絡があり、私達もホッとしていました。
秋も深まり、地震・津波を忘れかけていた9月。
澄み切った夜空に輝く満月を眺めていると、心も穏やかになり、あの地震・津波が無かったかのような晴れやかな気持ちになり、なんだか心が落ち着くのでした。
じっと眺めていると、美しく輝き放つ月のひかりは私にも、震災でうちひしがれた人たちにも、人の為に尽くしている名もなき彼等にも同じく輝き「月のひかりの中で私たちはつながっている」と思うと、胸が締め付けられんばかりでした。
夜空のかがり火が、永遠に輝き、幸せ導かれんことを祈りつつ、今年はこの三つの「つながり」を大切にしたいと心に決めた一年です。

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